政治家としても活躍!アントニオ猪木の若い頃の偉業まとめ

2022101日、日本のプロレス界を牽引し、参院議員としても活躍したアントニオ猪木さんが亡くなりました。アントニオ猪木 死因は心アミロイドーシスを原因とする心不全で、79歳でした。

2019年の秋頃に指定難病である心アミロイドーシスを発病し、闘病を続けていたアントニオ猪木さん。その闘病生活の様子はアントニオ猪木公式Youtubeチャンネル「最後の闘魂」にも度々投稿されていました。

アントニオ猪木さんの訃報はロイター通信など、海外メディアでも速報などで報道し、アントニオ猪木さんのこれまでの功績を称えました。

今回は、プロレス界だけにとどまらず、格闘技界、スポーツ界、政界など多方面に影響を及ぼした燃える闘魂・アントニオ猪木さんのこれまでの偉業についてまとめてみました。

アントニオ猪木(アントニオいのき)のプロフィールと経歴

  • 本名:猪木寛至(いのきかんじ)
  • 生年月日:1943220
  • 没年月日:2022101日(79歳没)
  • 出身地:神奈川県横浜市鶴見区
  • 身長:190cm
  • 血液型:AB
  • 職業:プロレスラー/政治家/事業家

アントニオ猪木さんは、1960年に移住先のブラジル・サンパウロで力道山にスカウトされ、日本でプロレスデビューを果たしました。東京プロレス、新日本プロレスを旗揚げし、数多くの試合で活躍。

1989年にはスポーツ平和党を結成し、参議院議員選挙で当選。史上初の国会議員プロレスラーとして話題となりました。

1998年に現役を引退すると、その後は新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」の設立、映画・CM出演など多方面で活躍し、2010年には日本人初のWWE殿堂(WWE ホール・オブ・フェイム)に認定されました。

アントニオ猪木さんのこれまでの偉業の数々!

「燃える闘魂」を掲げ、数々の伝説を残してきた偉人アントニオ猪木さん。アントニオ猪木さんのこれまでの主な功績をこちらでご紹介いたします。

プロレスラーとしての偉業

プロレスラーとしては1960930日にデビューをし、199844日に引退。

引退時には「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行ったことでも有名です。アントニオ猪木 道は、名言として多くの人に影響を与えました。

新日本プロレスリング株式会社(新日本プロレス)設立

日本プロレスとの確執が深まり、1971年に追放処分を受けたアントニオ猪木さん。その後、1972113日に新日本プロレスを旗揚げしました。当初はテレビ放送もなく苦しい経営を強いられ、またジャイアント馬場さん率いる全日本プロレスの圧力により、有力な外国人プロレスラー招聘は難航を極めました。

しかし、「昭和の巌流島の決闘」と語り継がれる元国際プロレスのエースであったストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨清算ケンカマッチ、史上最高の名勝負といわれているビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博しました。

さらには、タイガー・ジェット・シンさんやスタン・ハンセンさん、ハルク・ホーガンさんら多くの大物外国人レスラーを育成しました。WWWFと提携以降は多数の外国人スターレスラーを呼べるようになり、力道山さん亡き後のプロレス全盛時代を築きました。

アントニオ猪木さんのもとからは藤波辰爾さん、長州力さん、初代タイガーマスク、藤原喜明さん、前田日明さん、武藤敬司さんら多くの人気レスラーが育っていきました。

異種格闘技戦

新日本プロレスは「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレス界や格闘技界に大きな影響を与えました。

アントニオ猪木さんは自身の最強を証明するため、ミュンヘン五輪柔道金メダリストのウィリエム・ルスカ戦を皮切りに、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン戦、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムス戦など、さまざまなジャンルの格闘家と異種格闘技戦を行い、後年の総合格闘技の礎を築きました。

中でも、プロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリさんとの一戦は「格闘技世界一決定戦」として世界各国に中継され大きな話題を呼びました。

政治家としての偉業

1989年に参議院議員に初当選を果たし、1989年~1995年、2013年~2019年に政治家として活動した、アントニオ猪木さん。国家と国民のために自分にしかできない仕事があるという意識が強かったようです。

日本政府が立場上信頼関係を築くことが困難な国家を相手に、その国の懐に飛び込むことで日本の国益に貢献したのがアントニオ猪木さんの「闘魂外交」です。

イラクで人質解放を実現

199082日、当時フセイン大統領が政権を握っていたイラクが突如クウェートに侵攻したことをきっかけに湾岸戦争が勃発。

イラクは、日本を含む国際連合からの非難や制裁措置を受け、当時クウェート在住の日本人36人などを事実上の人質として出国を認めませんでした。政府間の人質解放交渉は難航し、日本では連日ニュースで大きく取り上げられていましたよね。

そんな中、アントニオ猪木さんは121日にイラクで「平和の祭典」を行うことを発表。この時、アントニオ猪木さん個人で費用を負担しトルコ航空機をチャーター、新日本プロレスのレスラーや関係者、人質被害者の家族らと共に、トルコ経由でイラクのバクダッドへ乗り込みました。

「平和の祭典」ではリングが組まれ、プロレスの試合を披露。その場には、在留邦人の人質も観戦にやってきたといいます。それまで頑なだったイラクも「プロレス外交」を評価したのか、それから間もなくして在留日本人と全人質を解放。多国籍軍がイラクに攻撃を始めたのはそれから約1カ月後となったので、まさにギリギリのタイミングでの開放となりました。

33回にもわたる北朝鮮訪問

アントニオ猪木さんは政治家として優先的に取り組みたいことの一つに「北朝鮮との外交の立て直し」がありました。「日本政府には立場があって身動きできないならば、オレが金正恩の懐に飛び込んで何とか誠実に対話ができる回路を作りたい」と当時語っていました。

アントニオ猪木さんは北朝鮮で生まれ育った力道山の「唯一の愛弟子」という縁で北朝鮮に近づき、1994年に初めての訪朝を果たします。

そして、1995年に北朝鮮で「平和のための平壌国際体育・文化祝典」を開催し、プロレス興行を実現。2日間で計38万人を動員しました。新日本プロレスのトップレスラーだった蝶野正洋さん、橋本真也さん、スコット・ノートンさんらが参戦し、ブル中野さんvs北斗晶さんの女子プロレス頂上決戦も行われ、詰め掛けた平壌市民を熱狂させました。

その後も訪朝を重ね、最高指導者との面会は実現しなかったものの、米朝協議を主導した姜錫柱元副首相、金正日総書記の金庫番として知られる李洙墉元外相、6者協議代表も務めた金永日元党国際部長ら、日本政府高官でも面会が難しい人々と独自のルートで接点を持ち、拉致問題解決に向けた取り組みに力を注ぎました。

まとめ

今回は、2022101日に亡くなった、元プロレスラーのアントニオ猪木さんのこれまでの偉業についてまとめてみました。アントニオ猪木 病気である「心アミロイドーシス」を相手に、最後の最後まで燃える闘魂を貫いたアントニオ猪木さん。

訃報を受けて、プロレス界やスポーツ界、芸能界、政界など各界の著名人から寄せられたコメントの多さからも、アントニオ猪木さんの影響力の凄さが分かります。

唯一無二のプロレスラー・アントニオ猪木さんが残した伝説や功績は、熱狂的な「猪木信者」によってこれからも語り継がれていくのではないでしょうか。アントニオ猪木さんのご冥福を心からお祈りいたします。

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